その5
思えばどうして自分は「中原さん」の家の前に倒れていたのだろうか。
適当に目星をつけた、というよりも、残った臭いが酷くなる方へ歩いていけば、自然、風呂場に辿り着けた。小さな風呂場の窓を全開にして、途中、ここへ来るまでにあった扉という扉、窓という窓、外へ通じる道筋はすべて開け放し、とりあえずは湯船の惨状を見る。幸いにして、湯船の中はさっぱりとしていた。どうやら洗い場のみを集中して掃除すれば、ここは何とかなりそうだ。それでも、一応は湯船から壁、手の届く範囲の天井をこすり、蛇口を全開にして、ひたすら洗い流す。この際、石鹸がなくなるとか、水が無駄だとかどうでも良い。
そう、亘は。
亘と名乗ったあの人は、そんな事は気にしない。そんな事よりも、今日の夕刻に、暖かいお湯に気持ち良く浸かれる事の方を重視する性質である気がした。生憎と雑巾が見つからず、自分の手が掃除用具代わりなおかげで、どうにも時間ばかりが過ぎていく。いい加減、指の感覚がなくなってきた。ちょっと手を休めれば、真っ赤になった掌に、心なしか、節々が痛む。本当に何かないか、ともう一度、風呂場や脱衣所を見てみるが、何もない。一体、どこに隠してやがる、と、だんだん腹が立ってくる。ふと、我が身を眺める。
「ああ!」
やはり、布はよく泡立つ。汚れも良く落ちる。済みの方の黒かびも、幾分か薄くなったようだ。
ご機嫌で、いまや雑巾と成り果てた包帯を見た。ふくふくと泡を含んだ木綿の細長い生地は、黒ずんでいる。どうしてか涙が出るのは気のせいだと、最後の仕上げに思い切り、壁という壁、床、湯船に余す事無く、水をぶっかけた。ついでに、自分にも頭から水をぶっ掛けたのは、言うまでもない。ちょうど水が欲しかったからいい。さっぱりとした空間に、石鹸の残り香はとても合っている。風の流れに身をすぼめた。ぐ、と縮こまり、大きく伸びをする。気持ちが良い。そうして思ったのは、僅かな渇き。ぴちゃん、と水の、滴る音。湯船の縁を伝う水の道に、天井から落ちてきた雫が後を引く。
「水が飲みたい、」
そう言った。
水!
刹那、目が飛び出るかと思った。開いた風呂場の窓から、水が降って来る。いいや、外からホースで水をぶっかけられている。
息がつまる。
鼻に水が入った。痛い。
確かに自分は水が飲みたかったが、こういう飲み方をよしとする程、飢えてもいない。が、ひたすら施される水の強襲は、留まる所を知らない。何とか目を開けようとも、あまりの勢いにどうにもならない。ただ、声が聞こえた。
「飲めよ、」
無頓着な声だ。平坦な声だ。一言、浴びせられた声により、一方的に施される水は、何の味もしない。
誰かも分らぬ相手からの強引な「もてなし」は、こちらが気を失うまで、たった一言のみを落とした世界で、行われ続けた。
もはや風呂場を配していた気持ちの良い石鹸のにおいは少しもしない。強烈な水のにおいに、世界は閉じていく。
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