「氷の中」
水の上を、飛ぶように歩くその子供の後をずっと追いかける。子供の足は水面に足跡を残すか残さぬかという微妙な線引きの上で、とん、とん、と駆けていく。
子供の足元を真似して自分も駆けてはみるが、残念な事に己の足は、水溜りをそのまま踏み越えてしまうだけで、水面をさざめかせる事すら出来ない。
子供は尚も、先を行く。
軽やかに、そして飛ぶが如く。
子供の足は、宙を行く。
とん、とん、と。
とた、とん、とたた。
子供は少しも止まる事無く、先を行く。
やがて子供は川を遡り、森を越え、湖の傍までやってきた。
ようやくそこで、子供は足を止める。
私はといえば、健啖な駆けっぷりに追いつくのがやっとで、ようやく足を止めた子供の後ろ、ぜえはあと大きく呼吸を何度も繰り返す始末の、無様な己を恥じた。
子供は佇み、その姿はやがて霞の中へと消えていく。ような、気がしたので慌てて私は子供の腕を取ろうと手を伸ばし、あ、と声をあげた。
目前に、迫る湖面にうつるのは、腕を伸ばした己だけ。
ああ、と今度は少し長く、声を出す。
勢いのついた体は止まる術もなく、顔面に迫る水鏡を、覗き込むだけで、他にする事も無い。
私はそうか、とだけ呟いて、そのまま湖の中へと落ちて行った。
ざぶん、と音を立てた事を知ってはいるが、実際にはその音を聞くことはない。
私はずぶずぶとまるで沼に嵌ってしまったかのような感触を髪の毛の先まで、全身に味わいながら、水底へ落ちていく自分を感じていた。
空を真正面にしつつも、決して届かぬ高さを実感したのは、幼き頃に空へと腕を伸ばした時以来だったなと思えば、随分と時がたってしまったことに、僅かな愁いを抱いた。
水の中へ差し込む光は、私の黒目をちりりと焼いて、私はその痛みに瞼を閉じることすら出来はしない。否、きっと、ここで目玉を閉じてしまうような事があれば、私はこの先ずっと、暗闇の中で生きねばならぬのだという絶対的な自信に満ちていた。
溢れ出す空気の泡が、辺りを包み込み、心なしか呼吸は先程よりも楽である。
尚も泡を吹き出す体の穴は、泡を出せば出すほど軽くなっていくようで、私は無重力という物はこんなものなのだろうかと、ぼんやり思う。
そうしている間にも、空はどんどん遠くなり、輝く銀の色をした水の膜の上っ面すら、遠いものとなっている。今や私は、二つの天井に囲まれた空気の中を沈むだけである。
二つの空は、私に限りない開放感と閉塞感を与えるといった矛盾に満ち、私はどうする事もなく、ただただその有様を目に焼き映すだけが与えられた使命なのだとばかりに、必死に両目を見開いた。
遠く、一つ目の世界の狭間に、こちらを覗き込む子供の顔を見た。
ああ、そうだったか。
私は今度は安堵の呟きを漏らす。同時に、泡が吹き出し、体は軽くなるはずが、重くなったような気がした。
「こちらに来ては、いけないよ。」
子供にそう言い聞かせるのだが、ごぼごぼと泡が吹き上がるばかりで、ちっとも声は届いていないように思える。しかし、それを確かめる事が私に出来るはずもなく、私はただ、沈んでいく体をもてあますばかりだ。
子供が腕を伸ばそうとするので、私はいけない、とばかりに腕を突っぱねる。
そこで、初めて絶望という物を味わった。体が、動かない。否、境界線は、分厚いガラス板で、区切られてしまっている。
「冬の日に、僕は死んだのだ」
子供の唇が、そう動いた気がした。
「そうなのだな、」
もう、届くことはない、あの空の向こうからは、しっかと目を開いた私の姿が映ることだろう。
私は二度と閉じはしない目玉の中で、生き続ける魂なのだと己を知った。
20080110
PR