その4
「〇〇、」
誰かが呼んでいる。
「〇〇くん!」
太陽に反射した花が、甘い香りをはなつ。そこはとても心地良く、素晴らしい場所だった。風が吹いている。気持ちが安らぎ、とても眠い。
「〇〇さん!」
身体を丸め、そっと目を閉じる。そして数秒もしない内にまた開き、うつった空の青さにゆっくりと笑む。雲が風にゆられ、太陽は顔を出しては隠し、のんびりとした草原はとても素晴らしい。
午後のお茶には、さっくりと焼き上げたレモンパイに、酸味に負けないジャスミンのお茶を。それだけでは口の中がきっとごわつくから、ミルクチョコレートを一欠けら。ぽい、と口に放り込めば、次は珈琲が欲しくなるだろう。口の中のカカオが消えてしまう前に、森の喫茶店へ走るのだ。鈴の付いたドアを叩けば、眼鏡をかけたマスターが、面倒そうに顔を出す。長い髪を一本にくくった今日のリボンは、何色だろう。手鏡を片手に、器用に一本の手でリボンを結ぶ後姿は、みんなの憧れだ。膝に猫を乗せ、時には邪魔だと蹴り飛ばし、美味い珈琲を入れる。長い指を持つ右手は一本足りなくて、その代わり、左手に一本、多くあるのがマスターらしい。気持ち悪いと人は言うけれど、珈琲の味に変わりはない。マスターの珈琲は、いつだって美味しくて、添えられた指には宝石が埋まっている。
宝物だね、と笑えば、食えなくなったら高く売るよと眼鏡の下で呟く口。笑いもしないマスターの、笑えない冗談はいつだって本気か嘘か分らない。
酸味のきいた豆を削る時、マスターは眉をひそめていつも問う。
「お前は気のふれた豆だな畜生。」
苦味のある豆を削る時、マスターは目を細めていつも問う。
「お前はつまらない意地を張るなよくそ豆が。」
深みのつまった豆を削る時、マスターは耳を動かしいつも問う。
「お前は食えない毒をみせるんじゃねえよごくつぶし。」
マスターの入れる珈琲は、いつも美味い。
「〇〇!」
呼び声に、また目を閉じる。ああ、聞こえる。聞こえるよ。
身体に流れる音が、大地に流れる音が、風に流れる音が、音、音、音の声。
「おとのうた」
その声で呼ばないで。それとも誰を呼んでるの。
頬をなぜる風が、気持ち良い。瞑っていても分る、太陽の香り。鼻腔をくすぐる花の色。ここは楽園だ、そう、楽園。ぼくらの楽園。
ちらり、と光りを放つ一本の道。瞼の裏には、閃光の道が続いている。白い道は、どこもかしこも白くて細い。そこを歩けば、きっと見つかる、辿りつく。
「〇〇、!!」
ああ、もう、うるさいな。
気持ちの良い草原は、次に目を開けば黄昏色。麦畑に浮かぶ、麦藁帽子。リボンの色は、何色かしら。
マスターの珈琲が飲みたくなった。
水が、欲しい。
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