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09/16

Thu

2010

水精(みなもり)君(仮) その6

 
その6



 蛇口にホースをつけて、庭の水遣りをする。天気が良い日には虹が出来るので、いつもその下をくぐろうと果敢に挑戦するが、自分が手を離せばホースはぐにゃんと地に落ちるから、残念ながら今まで一度も成功した事はない。一日の半分以上を日課と称して離れに引きこもっているこの家の主人は、時折、唐紙の隙間から眺めるだけで、虹の橋を制する大業を、手伝ってくれたためしはない。
 中原の家は便利だ。何せ、庭に面した壁に蛇口がついている。外に蛇口だ。水が飲み放題じゃないか。誰でも飲み放題だ。だから中原の家は好きだ。そういう太っ腹な中原は、庭を蛇行する小川の水を荒らす事は許さない。しかし、一歩でも外に出たとなれば話は別だ。中原は、家の敷地をぐるりと囲む、竹の垣根を越えた外側には興味はないらしく、垣根のすぐ傍で小川に西瓜を冷やしていても何の文句も言わない。ただ、中原の家の、竹の結界内にある川には、とてつもない独占欲を持っていて、半歩でも竹の陰に入った場所で胡瓜を冷やせば、どこから見ているのかすぐにやってきて、目が悪いからと本人は言うが、ぐい、とあの分厚い硝子眼鏡が乗った線香臭い顔を近付け、「やっても良いんだな?」等と相手を脅す。そんなけちな性分も持っている。
 だから、誰も中原の小川には手を出さない。おかげで、夏の暑い日でも、自分は竹の影の下、よく冷えた西瓜を、ゆっくりと落ち着いて堪能出来ている。中原には感謝せねばなるまい。同じ水であるというのに、内と外とでこうも扱いが変わる意味は未だによく分らないが、中原にその理由を尋ねても余計に分らなくなるだけであろうから、自分は冷たい西瓜や胡瓜を誰にも邪魔されずに食べられたらそれで気がすむので、どうでも良い事として処理している。それにしても、この前は危なかった。例の如く(目が悪く近くで見なければよく分らない、と至近距離でものを見る癖のある亘だが、あれはきっとわざとだろうと思う)、うっかり竹やぶの中の水に、茄子の入った籠を浸した途端、どこからかやってきた亘は、ぐい、と顔を寄せ、呟いた。
「やっても良いんだな?」
 黙って籠を引き揚げて、そのまま土下座し許しを請えば、奴は住処へ帰って行った。籠の中の茄子の数が減っていても、文句は言わない。
「やっても良いんだな?」は、ある種の呪詛だ。何をどうするのかそれは恐らく本人の気まぐれでその都度、決められるのだろうが、硝子に隔てられた瞳と見詰め合うのは毎度、腹の底が冷える。あの声と、あの硝子と、あの一瞬に込められる何かは、中原が持つ、欲の正体に違いない。その欲が引き寄せる呪いは、形を伴わない畏れで持って、中原の水を、守り続けている。
「無粋な奴だ、」
 だから蛇口の水を、今日もひねる。
 今日もまた、良い天気だ。快晴だ。
 なんだか今日は、虹の橋を制する事が出来るような予感がした。
 蛇口の下でとぐろを巻いている、青い蛇を持ち上げる。蛇口に青いホースがついているから、それを青大将と名づけたものだが、この間、うっかり、本物の青大将をひっつかみそれに気がつかず蛇口に手を掛けた時はさすがに参った。出ると思っていたホース口からは赤い舌がちろちろ飛び出て、出ると思わなかった口から水が出て、足元にはまるで粗相をした後のような水溜りが出来ていた。おっといけない、と手を離す事も忘れて、本来の青大将の首ねっこを引っつかんだら、今度は自分の顔めがけて放水だ。両手に花、ならん両手に青大将を掴んだ自分を、唐紙の隙間から覗いた中原は、げ、と嫌そうな声を咽喉の奥で発し、庭に捨てるなよ、とだけ残してぴったりと唐紙の閉めてしまった。本物の青大将は、家へ帰るついでに、外の小川に捨てたから、文句はないだろう。
「さて、今日は虹を渡る。」
 見ていろ、と注意深く「青大将」の口をぐい、と押す。平べったい口からは、薄っぺらい水が出て、よしよし、と機嫌良く青大将の首を仰向ける。そうして少し指先の力をゆるめ、水に勢いを増す。ちか、と頭上で光る太陽は、まだ本調子ではないのか、どうにもゆるい。それでも、ちょっと手首を返せば、水の背は光を反射し、うっすら、虹が浮かび上がった。
「よし、良い感じだ?」
 ぱちん。
 なんだ?
 目を凝らしても、虹には変わりはない。だが、再び。
 ふわん、ぱちん。
 薄い皮膜を持った薄い玉がふわりふわりとどこからか所在なく漂い、虹の橋にぶち当たっては、割れて、消える。ふわん、ぱちん、ふわん、ぱちん。
「むむむむ、」
 シャボン玉が虹の橋に当たる度、僅かに反射は角度を変えて、虹は薄くなっていく。
「誰だ、無粋な・・・!!!」
 ぐる、と背後に気配を感じ、振り返る。そこには大好きな蛇口。そして風呂の窓。開け放たれた窓の、中からふわふわ、石鹸のにおい。獣のにおいが、混じって入るが、間違いない。
「お前が犯人か。」
 ぐい、と窓を睨みつけ、青大将の口を緩める。ぼとぼと。青大将は醜く唾液を垂れながす。重みを持った水は、庭の敷石を派手に濡らした。
「水が飲みたい、」
 風呂がそう言った。
 故に、自分は真っ当に返事をしてやる。
「飲めよ、」
 青大将、ここぞとばかりに噛み付くが良い。
 
 
 
 

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