「浄化作用」
如雨露をそっと、傾ける。すると思ったよりも勢いよく水が飛び出し、びっくりして思わず指の力が抜け落ちそうになった。危ない危ないと、しっかり、手に力を込め直す。
庭に咲くムクゲに水をやる。気がついたら芽が出て、すくすくと育ち、花をつけたムクゲは逞しい命を、残暑の太陽の下、しっかと燃やしている。
「まるでそれは。」
「何だというのですか、兄さん。」
「お前こそ、何アルね。珍しい。」
明日は槍でも降ってくるかしらん。
思わず、空を見上げた。
「酷い言い草。」
いつのまにか隣に並んだ弟は、やや不本意そうに片眉をあげる。おやおや、器用だこと。
「気味が悪いアルよ、菊。」
再び、如雨露の水を花に与える。花を、葉を、茎を滴り落ちる水玉は、しっとりと地面へと吸われて行く。
「兄さんこそ、何ですか。」
名前なんて、呼んじゃって。
明日は槍でも降りますかね。
言って、弟はわざとらしく目を細めて空を見上げた。つられて、首をちょっと上向けると、薄っすら背の鱗をなびかせて、雲龍が太陽を絡め取る様を見た。成る程、季節は確実に移行しているのだな、と何となくしみじみ感じ入ってしまったものの、隣から注がれる何ともいえぬじっとりとした視線に、首筋を汗が伝った。
「今日のお前は変アル。」
顔を今度はしっかと弟の目玉に合わせ、言ってやる。すると彼はちょっと驚いた、といった風に目を瞠って、次の瞬間にはふわりと微笑んだ。
「ふふ、兄さんがムクゲに水なんか、くれてるからですよ」
「花に水をやるのがそんなに変アルか」
「ええ、ひどく。」
「ヒドク?」
「ひどく。」
はあ。
次は溜息。勿論、我が零した。弟はすでに、微笑をすっと能面の奥に隠してしまっている。そして尚も口を開こうとする気配だ。現にほら、今にも言葉を声として発現しそうだ。弟は喋る前、少しだけ瞼が震えるのだ。尤も、それは今日みたいにおかしな事を次々に語る場合のみであるけれど。とにかく、我にはこの弟と頭が痛くなるような会話を繰り広げる気は毛頭ない。さて、どうするか。
「兄さん、ずるいですよ」
「ナニがッ」
思案していた所への不意打ちに、声が裏返ってしまった。
「だって兄さんったら、決まって水をくれてやるんですもの。」
それも同じ時間、同じ分量、同じ笑みでもって!
「はあ?」
「ずるいですよ。ムクゲにばっかり。ムクゲなんて、ほっといたって地下から水を吸い上げますよ。なくたって、どこからなりと、水気を引き寄せてきます。」
「そんなものアルか?」
「そんなものですよ。植物は強かな生き物です。」
「そんなものアルか。」
そうだ、と力強く頷く弟は、もはや己が何を喋っているのか理解していないだろう。まったく、いつまでたっても手間のかかる子供で困った物だ。自分が欲する物を欲しいというのにこんな回りくどい言い方しか出来ないのだから。
「菊、言いたい事はちゃんと言うアル。兄ちゃん、菊からの話なら、いつだって聞いてやるアルよ。」
空になった如雨露を地面に下ろし、正面から菊と向き合った。少し前までは屈んでやらねばならなかった子供は、もう大きくなったというのに今度は覗き込まねばならぬらしい。まったく、手間のかかる事だ。菊はすっかり顔を俯けてしまった。ほっておいたら、うずくまってしまうかもしれない。
「しょうがない子、アルね。」
ああ、もう。膝を抱えてしゃがんでしまった男は、小さな小さな子供と一緒だ。
「菊?」
すぐにでもその身を抱き締めてやりたいけれど、そこは我慢の為所。菊が自分から言い出すまで、辛抱強く待ってやることにした。幸い、暇をつぶす物はすぐ傍にある。隆々と咲き誇るムクゲに、少し離れた所では緑の葉を繁らせ影を落す、桜の木。隣で静かに眠っている梅の木は、枝先を赤蜻蛉が飛び交い、賑やかだ。今年は去年に比べ、数が多いような気がした。そうそう、ムクゲの後ろに隠れてしまっているが、ノウゼンカズラは負けじと盛りを迎え、いくつも花提灯をぶら下げている。いや、ここは花簪と言った方が風流だろうか。いやいや、簪というには花弁が大きすぎる気もする。それにじっくり見ると、グロテクスにも見えてくるのだから花は面白い。簪ならば、道を隔てた離れに咲くサルスベリの方が、余程、似合いだろう。赤でも白でもない我が家のサルスベリは、薄桃色だ。一度、それを写真に収めた菊が彼の友人らに見せたところ、その可憐な色味が気に入ったと言い、あまり歓迎したくない輩が何人か、茶菓を持参し花見にやってくる事を思い出した。正直、いらん事をしてくれたものである。が、自慢の庭を見せてやる事に異議を唱えるような無粋な事をするつもりもない。まあ、嫌味の一つや二つは挨拶代わりだ。向こうも分かっている事だろう。
「私は兄なんか、いりません。」
おや、そうきたか。
「なら、我も、弟なんかいらんアル」
「一人もですか?」
「一人も。」
「一人も!」
現金な奴だ。急に明るい声を出したかと思えばすっくと立ち上がり、にっこり微笑み「綺麗に咲いてますね、このムクゲ」等とのたまう。まるでガキのする事だ。いいや、もうこの男はただのガキと成り果てた。いいや、現金なのは己こそ。変貌した男の様子に、胸元がじわりじわりと少年への父性に溢れてくる。そう、子供は可愛らしい生き物だ。
「菊、今年はキクの花も一緒に植えるアルか」
「本当?」
「本当。」
中国さん、中国さん。
呼びかける声の、なんと甘やかなこと。耳障りの良い声は、愛すべき音色である。
「何アルか」
「今夜は何が食べたいですか(うそつき)」
「菊の食べたい物で良いアルよ(この性悪め)」
「にほんー、兄キー、何やってるんすかー」
「ヨンス、」
「韓国さん」
(なに、ちょっとした。)
「ごっこ遊び、」
(アルよ。)
(ですよ。)
「・・・・二人とも、変な顔なんだぜ。」
20080901
大変仲の良いアジア3兄弟。にーにと菊はそんな間柄で良いと思う。もはやヘタリアでなくオリジとなっているけど気にしない(笑)。