「手」
僕はただ黙って彼の手を握り締めた。
彼が握り返してくれる事は決してないけれど、僕は彼の拳を手の中へ収める事に、心の安寧を感じた。
僕は生まれてからずっと、彼の手を頼りに生きてきた。
彼の手はいつも同じ体温で、いつも同じように僕の手中に収まる。
何も与えてはくれない彼の手は、ただそこにあるだけで、既に僕に何かを与えてくれている。
そう思っている。
彼はとても無口だ。
僕がどれだけ願っても、彼が僕に応えてくれる事はない。
それはずっと昔からそうであったから、いい加減、諦めてもいたけれど、それでも時々、彼が言葉を発してくれるならばどんなにか素晴らしい事だろうと僕はそんな空想に耽った。
「いってくるよ、」
僕はまた、返事のない言葉を無意味に呟く。
心の中の僕は、限りなくあなたに近い存在で、かぎりなくあなたと共に、在れるのに。
寂しさに身を啄ばまれ、落ちる先はあなたの手。
血脈の通い路すらも、覚えてしまったというのに。
あなたは、ただ黙って僕にその手を向ける。
「いってきます。」
僕はそれしか、言えぬというのに。
あなたは僕の全てであるけれど、僕はあなたの全てではないと気付いたのはとおの昔の話。
それでも僕は、あなたに今日も、手を伸ばし、差し向けられた掌を、そっと握り込む。
幸せな一時を、甘受する為だけに、僕は今、ここにいる。
20071029
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