「空の名前」
俺はいつでも正常だ。
僕には名前がある、空が見える、飯が食える、そして歩ける。
そう、僕は今日も正常だ。
火照る体を引き上げて、本を読んでいる。火照る体を横にして、目を瞑り、少し眠ろうと思った。
火照る体を揺り起こし、飯を食わねばと口を開く。
噛み締めた飯の味は美味いとか美味くないとか、そんなものではなくて、味そのものがダイレクトに舌へ
の刺激となり、腹を埋め、食後はぽっこり飛び出た胃が重い。
僕は大丈夫。問題ない。空から地面を眺める夢を見た。車に乗っていて、坂道を猛スピードで下り降りた
拍子に浮き上がったのだ。そうして、空から町を眺めた。かつて、住んでいたらしい町だ。僕には記憶が無い。
そうこうしているうちに、場面はかつて住んでいたという学生時代の寮のような場所へと切り替わる。
下宿先は記憶のものよりも古く、寂れて汚れていて、表参道を二本も三本も離れた辻の、一見しただけで
治安のよろしくない、風俗店が引き締める路地裏のようだった。コンクリートのような鉄板の無機質な黒い壁、
土汚れのついた倉庫のような黒い小さな扉。そこで僕は、なんて住みたくない場所なのだ、と少しでも綺麗な
部屋の様子は無いのかと外から中を伺う。その時、二階を見上げてふと思った。
「ああ、地下に住んでいたのか。」
僕は僕の住処を見つけた。
すると次々に住人がやってきて僕を囲み、おかえり、とかどうしたんだとか帰ってきやがったとか、歓迎なのか
陰口なのかよくわからない、とにかくたくさんの種類の言葉を僕は受け取った。
僕は再びそこで暮らし始めたようだ。ようだ、というのは気がついたら僕はそこに馴染んでいたからであり、
僕の手には住人の誰かからもらったものなのだろうか、大きな柑橘の果実を手にしており、僕は口元も首元も
服も手もたっぷりの果汁でべたべたになっているのも気にせずに、その分厚い皮をむき、白い薄皮をむいて、
そのまま噛り付いていた。すると、僕を遠巻きしている大勢の人間に気づく。ひそりひそりと何かが聞こえる。
ああ、そうか。
「僕は異常者だったのか。」
僕はどうやらそこの連中の気に障る人間らしかった。僕は記憶の無いこととそんな状態の毎日に身を置かれる
ことで不安にいっぱいだったのだが、どうしてかロドリゲス(おそらく友人の名前だろう)からもらったグレープフ
ルーツを人目もはばからずに食べているうち、彼の黒い肌に似合いの黄色いタンクトップを眺めているうちに、
少し雨で湿った靴裏に泥がつくような学校の庭を歩いているうちに、グランドで野球だかラクビーだかを見てい
るうちに、ごくごく当たり前にわかってしまった。空を仰ぐと、真っ青の大空である。車の中で見た、赤系の青で
はなく、青系、むしろ緑系の青。愛すべき、青。そんな青でもない、まっさらの、まっさおの、青空です。
ああ、僕は今日も正常だ。
20081011
20090104改稿
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